なぜ人は勉強するのか
どうも。明日は産業カウンセラーの学科試験。
残業で疲れたーを言い訳に、わりと壊滅的な状況で、さらにブログを書くという大バカ者の私です。(当たり前だけど、この試験、「ちゃんと」勉強してたら通るんだろうな)
とりあえず問題集をもくもく。そろそろ寝よう。←
ところで、他人によく言われる(正しくは言わせてる)こととして、
①勉強熱心だね
②想像力(創造力)があるね
ええ。ブンと殴ってやってくださいな。
個人的にはどちらも自覚がなく、
(ジョハリの窓というやつか…)
そういう、「問い」をいただき、改めて考えたのであります。
(どうでもいいけど、「とい」と検索して、「たい」「対」「隊」って、そもそも「と」じゃないじゃないー)
私の座右の銘?は
明日死ぬかのように生きよ
永遠に生きるかのように学べ
マハトマガンジーの言葉です。
まだピチピチのJDだった自己信頼の低い私は、「人は永遠に不完全であるという運命からは逃れられないのだな。」と変にしんみりしたものです。刹那…
とはいえど、よりよくいきていくためには、前向いて勉強して、磨き続けたらいいんだなー、と、よく分からないけど、今していることが大事かどうかは別にしてとりあえず前に進む原動力になったような気がします。
そういうのが一つ。信条とかいうやつかしら。
あと、環境的要因。
・自閉症の弟がいて家で勉強ができず、とりあえず取れる単位みんな取ったこと、またその意気込み。
・周りが看護師、検査技師などの技術系な専門職で、「自己研鑽し、知識も技も磨き続ける」という考えにある人が多く、またその影響をうけたことから。
そういう複合的な要因が関係しているものと思われます。
まわりには、私のとても、とても比じゃないくらい勉強している方は、直接お知り合いの方をはじめ、ごまんといます。
私にとって、何か新しいことを知ることは、特に深い意味があるというより、生きることそのもののような気がします。
そういうところをちょっと分解してみましょう。ちなみに、私自身を分析した話なので、学術的に正しいかどうかといった視点はありません。
生まれた時は、この世のことはほんのわずかしか知らないとして、何年色んなことを蓄えていく(DNAとか遺伝の話はちょっと置いておいて)
歳をとると、経験だったり人脈だったり、いろいろ蓄えが増えていきます。
絶対的な評価ができないとしても、なんでも「あるに越したことない」と思うのです。
むしろ、たくさん蓄えた方が、次の一手を踏み出しやすい、悪い言い方をすると、たくさんの人に出会っていろいろな考えに触れた方が、そこから、いい考えをもらってぱくりやすい。
私は自分の中に天性の何かがあるとは思わなくて、また、0から1を生み出すことは出来ないと考える人です。
たくさんの考えや、モノ、コト、あらゆることにいかに触れるかで、アウトプットに作用すると考えています。どろくさい。
なので、なにか役に立つために、生きる意味を果たすために、蓄えては出して、蓄えては出してしています。
蓄えなくしてはアウトプットなし。
そんな感じ。
(逆に蓄えたらばアウトプットしなさい)
だから、何か私から出ていたら、ああ、何か蓄えたものが出てるんだな!と思わなくてもいいけど。
時々、「少子化の世の中のために子どもをたくさん作りなさい!」と言われることがありますが、子どもがいない分際で言えないですが(言うけど)、子どもだけが、世の中への貢献ではないと、今はそう思っているため、おひとり様をしています。
今の私の幸せの中には子どもはないんですよね。
そんなこんなで、ガンジーさんがいったように、
学びの世界は底なし沼。
なので、私も、明日の試験に向けて必死で追い込むのです。
本当に人は学ぶのであれば、もっと早く勉強しはじめましょう。
やはり、いつまでも勉強ですね。